3月11日朝、奈良新聞の文化欄に掲載された辺見庸さんの『水の透視画法』を読んでいた。辺見さんは、中東や北アフリカの雪崩のような出来事を前に、「近年、世界はわたしが投影する像をとっくにこえて疾走し、わたしを置きざりにして暴走している」、と。
その前日、3月10日正午のラジオニュースは、前の日の9日昼に起きた三陸沖を震源とするM7.3の地震のその後について報じており、わたしはすぐに受話器をとって電話をした。0226・46・・・・。電話は留守電に切り替わった。「いま,ラジオを聞いて知りました。大丈夫ですか」、と。
翌日、3月11日午後2時46分、M9・0の巨大地震の発生だ。1日ちがいだが、電話の相手が、きょうも他行、留守であってほしいと祈った。
12日、13日、14日とテレビ・カメラはこの世の光景とは思えない惨状を報じていた。
そして15日昼前、「郵便です」の声とともに1通の絵ハガキがとどいた。そこに書かれた短い文面だ。
「ご無沙汰申し上げております。
本日は、早速にお見舞いのご連絡をいただき有がとうございます。
お蔭様で我が家の方は何事もなく一安心しております。
長い間揺れておりましたので、いよいよ“宮城県沖”かと覚悟したのですが・・・、また少しズレてしまった様です。
『天災は致し方ナシ』と母が申しておりましたが、毎日の事乍驚かされます。
奈良は相変わらず賑わっておられるのでしょうか。いつか、ゆっくり、ノンビリと出かけたいと思っております。
どうぞお元気でお過ごし下さいませ。お礼まで」
消印は南三陸町志津川・3-11/8-12だった。
地震はこのあとだった。ハガキの投函は前夜かこの日の朝か、投函する姿がうかぶ。
宮城県本吉郡志津川町、現在の南三陸町志津川を訪ねたのは昭和50年4月26日。当時担当していた第1放送朝の番組「みんなの茶の間」で、バード・ウイークを前にインタビューを予定していた野鳥研究家がベトナム戦争末期のサイゴン陥落の混乱に巻き込まれて、旅行先の東南アジアから帰国できなくなり、急きょ志津川愛鳥会の主宰者医師田中完一先生を訪ねることになった。仙台に1泊。その晩も震度4の地震があったことをおぼえている。翌朝、仙石線で石巻に出、北上川を芭蕉の『奥の細道』をたどるように柳津までさかのぼり、バスは村なかの道を右に折れて、やがて眼下にリアス式海岸特有の湾入した海が広がり、その海面を養殖いかだが碁盤の目状に切っていた。
志津川は海の匂いのする小さな町だった。バスの待合室の外にでると電柱に「田中医院スグソコ」という矢印つきの看板がかかっていた。あらわれた先生のあとにつき、案内された家の前で、「わかりますか、これ」と指さされたひさしの上の板壁に黄土色の横縞がくっきりとしみついていた。「昭和35年5月24日のチリ地震津波のあとです」と語る先生。それは、わたしの背たけのゆうに倍、4~5メートルはあった。
先生が亡くなった後もご家族とのお付き合いは続き、遠くみちのくから館を2度も訪ねてくださり3度目の来館を約した一昨年秋に先生の奥様は心臓発作で急逝。私には完成した田中先生の全3巻2000ページの野鳥に関する著作を日本野鳥の会会長の柳生博さんに届ける仕事が託されていた。それも、日をおかずに八ケ岳のわたしの友人を通じて手渡すことができた。もう一つ、来館の折り、館の庭に立つ『草木塔』に心動かされ、亡き御主人の生前のくちぐせだった「花は野に、鳥は山に」を碑文にした自庭の石碑のよこに『草木塔』を立てるお手伝いをするなど30年をこえるおつき合いが続いていた。そして、夫人亡きあと家を守っていたのがこのハガキのぬしだった。
こんどの大津波は石碑も、草木塔もすべてを流し去った。あくる3月16日朝7時のテレビニュースは、『南三陸町の海岸でおよそ1000人の遺体を確認。いまなお行方不明のひとは8000人をこえると報じていた。
無事を、そして奇跡を祈るだけだ。
冒頭のエッセーで辺見さんはこうも語っている、「凡庸であさはかなじぶんが想像する神の像は、ずいぶんとけたの小さい、みみっちいものになる。・・・たとえば聖書が開示してみせたような破天荒なダイナミズムにはほどとおくなる。」、と。 辺見さんが、「大動乱の波濤を予知することはかなわなかった」と書いた一文の掲載紙が配達された12時間後にM9・0の、文字どおり破天荒な、千年に一度の巨大地震が起こるとは予想だにしなかっただろう。もちろんこの一文のなかで辺見さんが予知不能とするのは、変動する社会についてだが、読みようによっては巨大地震の発生を預言していると言えなくもない。辺見さんは宮城県の生まれだった。
この稿を書きはじめたのが昨夕。夜半、雨が降り出した。風が吹き抜けた。日が変わると雨は雪となった。
誠 記