◇河内デ長髄彦ニ敗レタ神武天皇ハ紀伊半島ヲ迂回シ熊野カラ再攻、大和ヲ平定スル。
◇中世ノ説教節おぐりデハ、地獄ニ落チタおぐりガ熊野ノ湯ノ峯ノ壺湯ニ入ッテ甦エル。
◇同じ説教節ノさんせう太夫デずし王丸ハ後ニ丹後ノ守護トナリ雀追う母ト再会。
◇因幡ノ白兎ノ話ヲ始メトスル伯耆、出雲ヲ舞台トシタ一連ノ大国主命ノ死と再生ノ物語。
目に見えない一本の線が紀伊半島の熊野から北に向かってのび、丹後半島で向きを西にかえて出雲の熊野まで続いている。奇妙なことにこの線上には幾つもの「死と再生」「敗者の復活」のドラマが散りばめられていた。僕はこの1本の線をひそかに「イザナミ聖ライン」とよんでいた。
イザナミ聖ラインなどといったものいいは、ずいぶんと奇抜に聞こえるかもしれないが、奥飛鳥の古社で10年も草引きをしていると目に見えないものも見えてくるようになる。もちろん、ここでいう目に見えないものとはチミモウリョウのたぐいのことではない。
神話あるいは物語として残された古人の意識の痕跡をたどっていったときに浮かびあがってくる界域あるいはラインのことだ。世に知られたものでいうならば、西国三十三ヶ所がそうであり、四国八十八ヶ所がそうだといえる。
ただ、イザナミの聖ラインがそれらと異なるところは、その道が単なる「癒し」にとどまらず、「魂振(たまふり)」とでもいうのか、死とか挫折といったことによるマイナス域の心位をプラス域に勇躍させるエネルギーを潜蔵していることだ。
このマイナス域の心位をプラス域の心位へと転生させる、別のいい方をするならば「死せる者を甦(よみがえ)させ」、「敗れし者を復活させる」神が大地母神であり、そしてこの国の神々にあって大地母神に比定されるのはイザナミ。だからこそ、古来「聖母イザナミ」と称されてきたのだった。
イザナミの墓は日本書紀には紀伊半島熊野の有馬の花ノ窟とされ、古事記では出雲と伯耆の境・比婆山とある。これらふたつの記述の真偽の詮索(せんさく)はともかく、実はもうひとつ、松江市の隣・八雲村大字東岩坂字神納(かんな)なる地に「伝イザナミノミコト墓」がある。近くにはイザナミノミコトを主祭神とする「神魂神社」があり、御子神スサノオノミコトとご一緒に祀(まつ)られている熊野大社(八雲村熊野)もある。
紀州熊野、このふたつの熊野を結ぶ線は「負」を「正」に変換する大地母神イザナミのエネルギーの充溢(じゅういつ)する界域と古人は考えたに違いない。だからこそ冒頭に記したような幾つもの死と再生、敗者の復活のドラマが残されたのだ。
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